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古里 馬木を憶う

“四季折々の 山清く・・・”声高らかに馬木小学校で歌った馬木賛歌。
当時は何の感想も持たなかったのに、古里を離れ長い年月を経るにつれ、望郷の想いに彩られた馬木の姿は正に山紫水明、清冽な空気に抱かれ、 温かい人情に包まれた仙境のような存在である。
隣りの旧八川村から曲がりくねった金谷(かなや)峠を越し、ヤレヤレと馬木の土を踏んだときの眼前に拡がる馬木三山の静まり返った偉容には 本当に魂を洗われる思いがする。

まず目につくのは馬木のほぼ中央を占める矢筈山。真偽の程は知らないが、 戦国時代に尼子と毛利の戦いが行われたと子供たちは聞いた記憶があるが怪しいものだ。
その左手に標高千二百メートルを越え、雄牛の寝ているような形でドッシリと存在感を示す吾妻山。
更に眼前の左側には富士山を思わせる形の仏山と連なり、これが馬木三山と呼ばれる山並みである。
そして一望すれば左手には整然と絵に描いたような大新田の棚田が拡がり、更に西方の山懐には小馬木の集落を遠望することもできる。
この高原の村ともいえる馬木の佇まいには心を和まされる。

児玉治利
児玉治利(こだま はるとし)
大11年2月26日旧馬木村生まれ 
昭22年京大法学部卒
昭25年毎日新聞社入社 
昭58年から昭61年
毎日新聞社専務取締役大阪本社代表
平3年毎日新聞社退社
平2年から平6年大阪市教育委員 
大阪府在住
こんな自然に恵まれた中での生活は、今日のモノに溢れた時代とは比べものにならないものの「貧しい農村」というイメージは全く感じなかった。
豊かな農産物、四季夫々(それぞれ)の山野の幸に喚声をあげ、手厚い相互扶助の仕組みが人の和をつくり出していた。
商家を除き大抵の家が一、二頭の牛を飼い、また小さな池を持ち鯉の養殖をしていた。その世話に子供も手伝わされたものだが、当時の辛(しん)どい思いも今となっては懐かしい思い出である。 古里馬木に対する思いは尽きないが、今は六ヶ町村が合併して奥出雲町となり、神話に繋がる船通山や斐伊川の源流を共にし新しい連帯を創りつつある。 この姿は行政上の都合によるものとは云え、聊(いささ)かの違和感を旧各町村民は感じていないと思う。
その発展を祈ること切なるものがある。

リトルヘブン余禄
奥出雲町馬木地区を訪ねたのは、お盆の最中だった。十三日の夕方、水桶とオミナエシの花を持って、墓参する姿があちこちで見られた。 この地方では、墓にオミナエシと米を供えるのだと初めて知った。素朴で淡い黄色の花が、先祖を供養する気持ちを素直に表していると感じた。
十四日の夜は、第一本郷自治会の盆踊り。神社前の広場には、年寄りが浴衣にきちんと帯を締めて現れた。 やがて、小さな子を連れた若い世代が続々とやってきて、盆踊りの輪が三重になっても、踊り手は外に溢れるほどだ。
満足顔の年寄りが額を寄せて「あの若いのは、どこの孫なんか」などと話している。村を離れた青年たちが、家族連れで帰省しているのだ。
高度経済成長期、過疎が最初に問題になったのは、山陰地方と聞いたことがある。
盆踊りの輪に溶け入って、故郷の甘酸っぱい思い出を噛みしめたことだろう。 いつしかこれらの若者が、故郷で屈託無く暮らせる時が来ることを、願わずにはおられない。
(リトルヘブン編集室:芥川 仁)

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