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リトルヘブン
中津川の堤防から上流を望むと、 鮎釣りの太公望で賑わっていた

中津川の堤防から上流を望むと、 鮎釣りの太公望で賑わっていた

手作り梅ジュースの差し入れ飲み干し木陰で顔寄せ合ってお喋りするふたり 草取りをしていたイトさんへ、民さんが手作り梅ジュースを差し入れた

草取りをしていたイトさんへ、民さんが手作り梅ジュースを差し入れた

 大野松子さん(77)と沼田イトさん(86)は隣り合って暮らしている。ふたりは嫁に来た当初、家の脇を流れる小川の上と下でそれぞれ皿洗いをしながらお喋りするのが、密かな楽しみだった。「昔は、嫁同士喋ってたら怒られたもんな。お姑さんが先に畑に行った時に、松っちゃんいるかなあって川に来たもんだけどよ。タイミングが合わねえの」とイトさん。

木陰に合わせてベンチを移動させる
木陰に合わせてベンチを移動させる
 「私が嫁に来てすぐだったよな。家で卵も食わしてもらえねえんだって、イトちゃんに愚痴言ったことがあったな。そしたらよ、陰で生卵飲んじゃって、殻は川に捨てりゃあいいっておせえてくれたんだよな」「そりゃあさ、早く嫁に来たもんは知恵つけるからよ」。今では笑い話だ。「いま生卵なんか飲んじまうと、逆に強すぎるよな」。お互いの肩を叩きあいながらケラケラ笑う。
 辛い思いを流してくれたその小川は、幼かった頃の子どもたちを水浴びさせ、晩ご飯のごちそうになるウナギや沢ガニを捕った川でもある。今も水は、石積みの堀の中をチョロチョロと流れ、野良仕事の後で長靴を洗うのに使う。
 次の日、里芋や落花生が植わっている畑の中にイトさんの姿があった。真上からじりじり照りつける梅雨明けの太陽の下、両膝をついて黙々と草をむしっていた。道路の上から近所の沼田民(たみ)さん(86)が声を掛けた。
 「イトちゃんよ、あんたに話してえことがあったんだよ」「暑いからさっき梅ジュース一杯飲んでさ、外見たら、ああイトちゃんが畑にいるって思って、イトちゃんの分も持ってきたよ」。氷入りの手作り梅ジュースを、イトさんが立ったままゴクゴク飲み干す。頬かむりの手ぬぐいをとると額から汗が滴(したた)った。「里芋の周りをやっちまったら、民ちゃんちに行くよ」「うん、待ってるよ」。
田んぼの上を吹く風にのるハクセキレイ
田んぼの上を吹く風にのるハクセキレイ
 その夕方、ふたりは風通しの良い玄関前のベンチに座って、顔を寄せ合ってお喋りをしていた。太陽が動いて木陰が移動するたび、ふたりでベンチの両端を持って位置をずらす。目の前に広がる田んぼから、ドジョウやタニシが消えても、人の絆は根付いている。田の水を見回りにくる人たちの姿が消える頃、集落に祭りの行燈が灯った。

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発行:株式会社 山田養蜂場  編集:(C)リトルヘブン編集室
Photography:Akutagawa Jin  Copyright:Abe Naomi  Design:Hagiwara hironori