彼の名前は史也。この春から6年生。私と同い年だ。でもどうみても中学生くらいのがっしりした体格に、いかにも元気そうに日焼けした顔。朝2杯ごはんを食べてかけ足で分校へ行く。時々遠くの村から友達を連れて帰ってくる。女の子もいた。何度もばあちゃんを通して誘ってくれていた史也君は、断り続けるうちに私のことなど気にしていないみたいだった。でも、私はいつも裏の栃の木に登っていた史也君を、こっそりと窓から見ていた。バネのついた靴をはいているのかと思うくらい軽やかに飛び上がり慣れた手つきで真ん中の太い枝まで登っていく。アッという間に到着した指定席でいつも村を見下ろしていた。同い年なのに、全然違う人種みたいだった。木登りはもちろん、私は外遊びもしたことがない。体育の時間も見学ばかりだった。
史也君の世話も楽しそうにしているばあちゃん。週末になると史也君のお父さんと晩酌をするじいちゃん。なんだかだんだん私は落ちこんでいった。私だけ取り残されている感じがした。そんなある日の晩ご飯の時、今度の日曜、美山分校の春の運動会にみんなで応援に行こうと話がまとまっていった。美山では分校のイベントには村中が仕事を休んで参加するという。なんで私が応援"史也君と、友達になりたくても近寄れないのに。分校は他の子どもがいるし絶対無理だ。頭がくらくらした。私中心だったここでの生活に養蜂家のふたりの歯車が加わった。とどめはばあちゃんの何気ない言葉だった。
«ええねー、男の子はたべっぷりがちがうわ、たくさんお弁当こしらえないけんね。作りがいがあるわぁ、倉ちゃんも、もっと食べやぁ»
私はばしっとはしをおいた。
«いらないっ(»
それっきり部屋にかけこみ布団にくるまった。おもしろくない、史也君のほうがばあちゃんは可愛いんだ、あの時住んでもいいなんていわなかったらよかった。あんな健康な子と比べられるなんてもう耐えられない。私の気持ちなんか誰もわかりっこない、気がつくととっぷり夜がふけていた。いつの間にかふて寝をしていたみたいだ。人の顔のように見える天井の節目はぐっとにらみつけているようだ。裏の栃の木が夜風に揺られびゅうびゅう鳴っている。いくら窓をぴしっと閉めてもどこからかすきま風が忍び込んでくる。怖い。ここにきて初めて夜を怖いと思った。暗闇に溶けていくような気がして、一人を寂しいと思った。そして久しぶりに、ばりばりとあちこちかきむしっていた。
次の日の朝、にわとりより早くなにかの物音で起きた。雨戸に小石があたる音だった。ピンクのカーテンを開けるとまだ薄暗い外気の中に史也君が立って手招きしていた。私はどきまぎしながら外にでた。史也君はいきなり私の血がにじんだ汚い腕をぐいっとひいて栃の木まで走った。何、なんなの"状況が理解できないまま史也君についていった。ただ昨夜、腕をかきむしったことを目一杯悔いた。
«おい、ここで採蜜するで。今蜂がとってきたばかりの蜜は水分が多いけん、今日の新しい蜜が巣箱に運ばれる前に採蜜するんで。ええな、倉子も手伝え。急ぐんじゃ»
«えっ、クラコ……"どうして"なんで私"»
«どうせお前、暇なんじゃろ。俺は学校行くから。この巣箱は俺の担当じゃ。わからんことはおやじにききながらやってみぃ»
史也君はてぎわよく薫煙してちっとも怖がらず箱の中の板みたいなものをはずした。
«これが巣じゃ。うまい栃蜜がたっぷりじゃ。なめてみるか"»
私はあわてて首をふった。目の前で、うじゃうじゃと蜂がうごめいていた。指先くらいの小さな体でびっしりと固まっている。あんな高い木まで飛んでいって、少しづつ蜜を集めてはきちんとこの木箱に帰るという。史也君は力をこめて蜂の話をしてくれた。感心した思いと、気持ち悪いし怖いような思いとが交差して、蜂を見つめたまま突っ立っていると、史也君が怒鳴ってきた。
«ぼーっとするな(一体お前は毎日なにやっとんじゃー。病気のつもりかよ。蜂のほうがよっぽどしゃんとしとる。倉子はただのぐうたらな雄バチといっしょじゃ。最悪じゃ。こんないい所に住んどって、栃の木と住んどって……。ちぇっ、ちゃんと手伝いぐらいしとけ。いやなら学校へ行け。わかったな»
一言も言い返せなかった。言いたいことだけ一方的にしゃべると史也君はすっきりした顔でさっさと朝ごはんを食べて、分校へ行ってしまった。にわとりの声がまぬけに響いていた。栃の木がざわざわと葉音をたてている。もくもくとなにかが私の中で広がってくる、何かができそうなそんな何か、とにかくやらなきゃ……こんな気持ちは初めてだった。見上げた栃の木の幹はどしっと太く、でんと受けとめてくれそうだけど、皮はぼろぼろで決して美しい木って感じゃない、まるで私の体みたいだった。
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