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リトルヘブン
時桜(ときざくら)
茂在 寅男(もざい・とらお)
1914年茨城県つくば市北条生まれ。東京高等商船学校航海科卒業。日本郵船職員、鳥羽商船学校教官、東京商船大学教授、東京大学水産学科講師兼任東海大学海洋学部教授、(財)サンタ・マリア号協会専務理事を経て、現在は東京海洋大学名誉教授。工学博士、日本水中考古学会副会長、英王立航海研究所名誉会員。著書多数。1990年教育関係の業績を認められ勲三等旭日中授章を受ける。
 筑波山麓と言ったら「がまの油」。「一枚の紙が二枚となり、二枚の紙が・・・」と続く本名「陣中膏がまの油」は良く知られているが、それが私に深い関係がある。浅草六区を起こした快男児鉄砲喜久の生家である山田屋薬局が売り出したのが「筑波山がまの油」。その陰に、東大教授の知人が力を貸し「塩酸エピレナミン」を中心とした配合が物を言ったというのであるが、実は、力を貸した油棚憲一とは私のペンネームなのです。
 誰でも、一生を決するような体験を持っていることと思います。私の場合、その最初が五歳の頃、東京の深川本所に嫁に行っていた姉を訪ねた時のこと。隅田川河口に停泊していた船の中に、白い帆を張ったひときわ美しい一隻の船が目に飛び込んできました。「あれは、商船学校の明治丸だよ」と、親が教えてくれました。「ぼくもあの船に乗りたい。だから商船学校に行くんだ」と、幼い心はすっかり「明治丸」に占領されてしまいました。これが、私を海の男にし、航海計測学の専門家に仕立てることになった幼児体験です。
 商船学校へ行く夢は持ち続けていましたが、中学校では下から席次を数えた方が早い劣等生だったのです。当時の商船学校は競争率二十五倍という超難関。春秋の二回行われていた商船学校の入試を四回受けましたが落ちました。私が二年間の浪人生活を送っていた時のこと。朝、母親が「夕べは寝汗をかいちゃった」と言うので理由を聞いたら、母親が涙声になった。「お前が何回も試験に失敗しているのを見ていられないから、母さんは好きな煙草をやめて、神様に願を掛けているのをわからんのか」と、言う。それを聞いて、私は勉強部屋にしていた蔵の二階で泣いたんです。それで奮起して、悲願の商船学校航海科に合格を果たすことができました。
 私が後に、南米のチチカカ湖の湖底探査や元寇船の沈没船発見など、世界的に評価される成果を上げることができたのは、少年時代から育んでくれた母の愛と筑波山や霞ヶ浦の自然に親しんだ私の幸福が原因と言うべきではないでしょうか。人との輪、包容力、感謝。私の一生は、それですね。(談)
 
 
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発行:株式会社 山田養蜂場  編集:(C)リトルヘブン編集室
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