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幼き日の広見川 奥島孝康
 
エッセイ 風土に寄り添う  私のふるさとは四万十川の支流広見川の源流の日吉村(現鬼北町)である。むしろ、坂本龍馬など勤王の志士の脱藩ルートとして有名な梼原町が、隣町だといったほうがわかりやすいかもしれない。愛媛県と高知県との県境の山村なので、山菜など山の幸に恵まれており、いまでは「ゆずの里」と呼ばれるほどであるが、私の幼児記憶のほとんどは広見川の、川の幸と結びついている。
 当時(昭和30年頃まで)、川には魚が湧くようにいた。川面に頭を出している岩に、大きめの岩をぶつけると、ハヤ(ウグイ)が脳震盪をおこして、白い腹を見せて浮き上ってくるほどであった。村の上流ではアメノウオ(ヤマメ)がいたし、下流ではアユがたくさん釣れた。
 しかし、なんといっても、私たちが熱中したのは、四万十名物のツガニとウナギの漁だった。その季節になると、村中の家の食卓を盛大に賑わせたものである。
 ツガニは「ウエ」という竹籠を使って捕るのであるが、そのほかにもいろいろな捕り方をした。「夜川」といって、夜中に、カーバイトの青白い光で川中を移動するカニをカニバサミで捕らえたり、ツガニの必ずひそむ川岸の石垣の小さな穴を数日ごとに巡回して毎回数丁つかまえたりするのは、小学生にとってとても楽しい日常の遊びであった。とりわけ、ツガニが湿地に群れをなして泡をふいているのを見つけて、一網打尽にするときほど大きな悦びはなかった。
 また、ウナギは「ジンド」という竹筒にミミズを入れて毎晩川底に沈めておくと、ほぼ八割方ヒットした。一晩に10本ほど沈めておくのであるが、2、3日に1回はそのうちの1本の竹筒には10匹くらいひしめき合って入っていた。ウナギの通り道は思わぬところにもあり、それが子どもたちの「企業秘密」であった。
 あのころ、私たち村の子どもは広見川の水を平気で飲んでいた。
 しかし、悲しき哉。いつのまにか日本一の清流は伝説と化した。あの幼き日の生命に満ちた川の甦る日は、はたしていつのことであろうか。

奥島孝康(おくしまたかやす) 
現在/早稲田大学大学院法務研究科教授、自然体験学習推進協議会会長、富士山クラブ理事長、ボーイスカウト東京連盟長等
●昭和三十五年 愛媛県立宇和島東高等学校卒業●昭和三十八年 早稲田大学第一法学部卒業●昭和四十四年 早稲田大学大学院博士課程修了●昭和五十一年 早稲田大学法学部教授、法学博士、フランスへ留学(三年間)●平成二年 早稲田大学法学部長(四年間)●平成六年 早稲田大学第十四代総長(二期、平成十四年まで)

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