山田養蜂場 TOP
リトルヘブン
上流域は質実の輝き
遊鶴羽の谷に朝日が射し込むと霧が晴れて、集落を照らし出した。棚田は、まだ1回目の田起こしが終わったばかりだ。
 
四万十川の清流を支える支流の1つ、愛媛県広見川流域の魅力は、
静かな谷間の空気と濃密な近所の絆。ただそれだけで、幸せを感じさせる。

 


道端の野草にも小さな生命の営み
 晴天の秋、朝は決まって遊鶴羽(ゆずりは)の谷が、深い霧に覆われる。朝日が昇り、上空から次第に晴れてくると、山の端を描き出すように、うっすらと青空が顔を出す。
 愛媛県北宇和郡松野町の奥内(おくうち)地区は、清流として名高い四万十川の支流を構成する広見川の上流域である。
 奥内地区でも上流に位置する遊鶴羽集落は十世帯。午前6時前、谷間の狭い空が白々としてきたばかりだ。斜面を削って開通した坂道は、ようやく車一台が通れるほどの幅しかない。道脇のちょっとした空間に車を止め、ドアを開けた途端、「えらい早よから来たの」と声がする。
 すぐ隣の少々斜めになった畑で、まだ手元しか見えないのに、大根の間引きをしている初老の男がいる。「すぐ上の家じゃけん、茶でも飲んで行ったらええがの」と、見知らぬ私を誘ってくれた。

 声の主は井上忠さん(68)。彼の家は屋号を「ヘヤンサキ」という。遊鶴羽の谷には、井上家が六軒と岡本家が四軒ある。同じ名字なので、お互いを屋号で呼び合うのだ。
 上がりがまちに座らせてもらい、奥さん手作りのコンニャクを、生醤油でいただく。プルンと、腰のある歯ごたえだ。
 「昔は年中、仕事をしよったけん。稲刈りが終わったら、麦蒔き。それに蚕、麦刈り。木こりにも行きよった。今は、勤めに出ん者は、秋から春までは仕事ないわいな。ストーブ焚いて、暖こうなったら外に出て、じーっと静かに生活するだけよな」
 ヘヤンサキでは、犬二匹、猫一匹、烏骨鶏三羽を飼っている。
 「メダカは何匹か分からんな。池にコイも飼うとったけど、イタチがとってな。いけんわい。烏骨鶏も13羽おったけど狸にやられた。昔なら、秋祭りの時に首ちぎって、料理にして、客もうまいと言うて食べよったけど。今は、うまいというものがないもんな」
 奥内地区の棚田は、十四ヘクタール、約300枚の水田がある。下組集落の棚田から遊鶴羽の1番上の棚田まで、標高差は150メートル。
 「400年、500年も続いとる訳じゃが。1日に大きな石を1つ動かしたら終わりと、そないなことで切り開いたもんじゃが。偉いぜ。ほんとそれは偉大な思う。昔からあるもんじゃけん、守らないけん」
 忠さんは、44年前に隣町から養子に来ている。
 「養子はここの谷で4人居らい。やっぱ先祖を守らないかん、絶えたらいかんという気持ちで、しがみついておるんじゃないかな」
 山間の集落は、様々な困難を抱えている。その現実が裏腹に見えるほど穏やかな晴天の秋、四国山地の山間で暮らす四万十川上流域の人びとを訪ねた。
ヘヤンサキの井上忠さん
ヘヤンサキの井上忠さん


地図

写真と文 芥川 仁
  
リトルヘブン余禄 
今号取材の主役となった広見川が、四万十川と合流する高知県江川崎を訪ねた。
緩やかな流れの四万十川に、勢いよく流れ込む広見川。合流すると、白波の立つ水流となって大きな弧を描き、左岸に接しようとするところで、四万十川の水流に馴染んで流れた。
広見川は合流点で幅十mほどの川だが、これほどの水量を蓄えられる谷懐の深さを想像させた。
その山々の一つひとつに、喜びも悲しみも抱えた固有の暮らしがあるのだ。
松野町の遊鶴羽集落と鬼北町大宿の権太(ごんだい)集落の人びとには、突然お訪ねし、静かな日常を掻き乱したお詫びを申し上げたい。
数日間の取材で、何ほどのことを理解し、紙面に反映できたか。不安は尽きないが、出会い、ご厚情をいただいた感謝を糧に、日本の隅々を訪ねます。次号は、長野県の山中を予定。お楽しみに。

(リトルヘブン編集室:芥川 仁)

TOP TOP  1  2  3  4  5  6 皆が家族

発行:株式会社 山田養蜂場  編集:(C)リトルヘブン編集室
  Photography:Akutagawa Jin  Copyright:Ito Naoe  Design:Hagiwara hironori