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リトルヘブン
毎日毎日、渋柿ばっか食べんの いつごろ美味しくなるべなあって
宮川ダムからの灌漑用水を引き入れ、粗代掻きをする佐藤喜久雄さん。後ろに見えるのは、会津盆地を取り囲む横山や神篭ヶ岳などの連なり
男床の奥の間から女床の間を見る喜久雄さん

男床の奥の間から女床の間を見る喜久雄さん

 奥の間の女床に、鶴の絵の掛け軸がかかっている。「普段はこっちさ来ねえから、まだ正月のまんまだ」と、佐藤喜久雄さん。違い棚がある隣の男床で神主さんにお祓いをしてもらい、家族そろって女床の間でおせち料理を食べるのが佐藤家の正月だ。「嫁に来っ時、人が亡ぐなった時、玄関でなく女床の間から出入りすんです。私もここさから入ったの」。五十年前の結婚式の写真を治子さんが見せてくれた。黒の紋付、髪を島田に結った治子さんの前には、鯉の旨煮や卵焼き、こづゆなどのご馳走が並ぶ。「家さ着いたら中宿(なかやど)の間で一服して、準備さ整ったら奥の間でお祝言をあげるんです。余興の途中に、私だけ仲人さんに連れられて勝手という大広間で〈なかまたけっこ〉しました。ソバ打ったり餅ついて手伝ってくれた近所の人に挨拶することを〈なかまたけっこ〉言うんです」。

14部屋100畳以上の茅葺き屋根の家
14部屋100畳以上の茅葺き屋根の家
築百三十六年、十四部屋百畳の家を身不知柿で支えた
裏山で、満開のしだれ桜の下をくぐる治子さん
裏山で、満開のしだれ桜の下をくぐる治子さん

 喜久雄さんは、佐藤家二十二代目だ。明治初期の農民一揆で庄屋だった家が焼かれ、村長をしていた祖先が、明治八年に以前と同じ規模の家を建てた。平成になって喜久雄さんが、茅葺き屋根にトタンを被せ、土台や壁もすべて改修したが、部屋の作りは以前のままだ。  「うちは田んぼが小さくて、両親は体が弱かったから生活は大変だったんです。私はね、外にお勤めしたくってうずうずしてたんだけど、親の一言です。農業やれって。もう終わりだあって思って、大学受験の勉強してる同級生をじーっと横から見てたんだ。嫌々やってると失敗すんですよ。最初は農業が身につかんかった。それがね、良いもんができっと喜びが生まれて、大変だって気持ちがなぐなるんです。そこまでくるんに十年。今じゃあ、自分の仕事が楽しく出来ねえようでは本職でないぞって若いもんに言うんだけんじょ」  喜久雄さんと治子さんは、米と葉タバコ栽培で二人の娘を大学まで出した。その後、身不知柿(みしらずがき)の苗を百三十本植えて、柿栽培を始める。手作りのパンフレットを持って県外へも営業に行き、当時では珍しく、お客さんに直接商品を送る販路を開拓した。  「柿の渋抜きが難しくってね、十キロ箱だと柿が重なって傷むから五キロ箱に平ったく置いて、エアコン入れて。どうやったら綺麗に仕上がるか研究したんです」。喜久雄さんが言うと、「毎日毎日、渋柿ばっか食べんの。いつごろ美味しくなるべなあって、二人で考えて」。治子さんが目を細くして笑う。「農業は、二人でやって十のもんが、一人になって五はできんのですわ」。  喜久雄さんの手に、柿と米を送った宅配便の控えがある。全国の住所が書いてあるその束が、夫婦で力を合わせて汗を流した歴史を物語る。  玄関脇の勝手と呼ぶ部屋に、明かりが灯った。一階と二階を合わせて十四部屋百畳以上の広さがある家の中で、一緒に暮らす家族六人が集まるのは、いつもこの部屋だ。田んぼで代掻きをしたこと、裏山で蕨(わらび)が伸びてきたこと。教師をしている娘夫婦と孫たちが帰ったら、喜久雄さんが報告したいことはいっぱいある。

文・阿部直美
写真・芥川仁

 
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