TOP
リトルヘブン


「俺らの頃は、中学から強制的に寮生活で、朝から晩まで先輩と同じ部屋だけえ、全く気い抜けんかった。自分のシャツはアイロンなんかかけんのに、先輩のにはぴしっとかけなあ怒られる。怖いけえ、そりゃあもう、死に物狂いで覚えましたわ」中村英信さんにとって、人生最初の荒波に放り出された中学一年生の記憶は鮮明だ。上下関係、挨拶の仕方、洗濯、多くのことを学んだ時期だった。  
英信さんは、この四月、西八幡地区三島集落十二世帯の班長になった。任期は二年。草刈りや水路掃除、盆踊りなど地域の行事は多い。 「集まりの後には、飲むんが楽しみの集落だけえ、宴会の準備だけは忘れんようにせんといかんのですよ」と、笑う。英信さんには、子供のころから馴染みのある行事なので、苦にはならない。三人いる子供たちのPTA役員も回ってくるし、八幡地区にふたつある神楽団のひとつ「長尾組」にも入っている。「ものすごお、いろんな役割が重なっておるんですけど、集まりに行くといつも同じ人間しかおらんのよ」それでも、新しい風は吹いている。英信さんに続けとばかりに、同じ集落の若者たちが地域デビューを果たしている。
毎月の常会には、父親と代替わりをした三十代の息子たちの姿も見られるようになった。
 
三浦屋(中村家の屋号)の裏山に、クヌギの新緑が萌えていた
一家総出で田植えを終えた英信さん宅の田んぼが、五月晴れの空を映している
本番と同じ衣装を着けて「天神」を舞い終え、息苦しさと共に手応えを感じている中村英信さん
鉄信さんが、日の出と共に、植え付けの悪い苗を点検して廻る
舞台一杯に大きな振りで「道眞」を舞う英信さん
五月中旬の日曜日、中村家総出の田植えの日だった。消防署に勤める英信さんと、看護師をしている妻の裕子さんの休みに合わせて、日程が決まる。英信さんの父、鉄信さん(65)が、大工仕事をしながら必死に守ってきた田んぼだ。「息子に言うたんや。おまえも六十歳で定年になるんだけえ、そしたら何もすることのうなるぞって。趣味でやりゃええじゃけん。田をやりゃあええって」息子には田んぼを継いで欲しいと願っている。「だからってな、田をやっても損するだけだわ。ひとつも儲からんのよ。本気でなけりゃ苗にならんのやけん。すごい必死やけんね」。彼の胸内は複雑なのだ。  
鉄信さんは若い頃、集落が雪に閉ざされる冬の間、広島市内に出稼ぎに行った。妻の豊子さん(63)は、近くのスキー場で働いていた。高校に進学し、最初は寮生活を送っていた英信さんだが、途中で通学に切り替える。雪の日もバスを使うことはなかった。通学の密かな楽しみ「早弁」が理由で始めた自転車通学だったが、現金収入を得る大変さも、子供の頃からよく知っていたからだ。「田んぼは、自分でやるようになったら、きっと面白うなると思うんですわ」。父親のいないところで、英信さんがそっと言った。  
蛙の声が大きく聞こえてくる夕暮れ時、田植えが終わったばかりの水田に神楽囃子が響く。二週間後に迫った「北広島町神楽共演大会」に、長尾組も参加する。俺についてこいという大太鼓の気迫が、小太鼓と手打鐘をぐいぐい引っ張る。熱気で破裂しそうな空気。英信さんが舞う道眞と敵の時平が睨み合い、刀を振りかざし、舞台いっぱいにくるくると回転する。演目「天神」一番の見どころだ。  
父の時代には、限られた家の者しか舞う事を許されなかった芸北神楽だが、英信さんの代では、誰もが自由に舞えるしきたりに変わった。父が手に入れられなかったもの、残してくれたものに、英信さんは今、気負うことなく真正面から向き合っている。

文・阿部直美  写真・芥川仁
北広島町「尾崎谷湿原」
北広島町にある標高約800メートルの八幡高原には、ここが一万年以上前まで湖だった名残りとして、大小20ほどの湿原が点在している。その中の一つが、西八幡原三島地区の背後にある尾崎谷湿原だ。
4月になると雪解け水の流れる沢に、氷河期の生き残りと言われるリュウキンカが、小さな黄色い花を咲かせ群生となる。中国山地の湿原にだけに生息する希少種トンボの一種ヒロシマサナエは、運が良ければこの湿原でも見ることができる。尾崎谷湿原のある新川ため池の周りは、一周およそ30分間余りの遊歩道として整備されているので、イタチツボスミレやショウジョウバカマなど香りの良い小さな花を愛でながら、高原の風を楽しむ贅沢を味わってほしい。ただし熊の目撃談があるので、ご注意を。

広島県山県郡北広島町のデータ

●人口/20,616人(2009年4月)
 男 9,849人
 女 10,767人
●面積/645.86 km2 
●高齢化率/33.6%
●主要産業/水稲
●北広島町役場
 広島県山県郡北広島町有田1234
 〒731-1595
 TEL0826-72-2111(代)
●取材地/北広島町西八幡原地区への行き方
 JR広島駅新幹線口から(191号線経由)益田行き
 (1)09:43発 広島電鉄バス 11:36着
 (2)18:28発 石見交通バス 20:21着
 八幡原バス停下車 料金2040円
 但し、このバス停を降りた後、2キロ余りの交通手段がない。民宿などの予約をしている場合は、迎えに来てくれることもある。

お茶を飲みながら TOP  1  2  3  4  5  6  7 エッセイ故郷への想い
発行:株式会社 山田養蜂場  編集:(C)リトルヘブン編集室
Photography:Akutagawa Jin  Copyright:Abe Naomi  Design:Hagiwara hironori