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リトルヘブン
畑の縁に座って話を聴かせてもらう間にも、
イソノさんの右手は自然と草をむしり続けていた
 棚田の様子を見回ることから、広長イソノさんの 一日は始まる。朝食を済ませたら、さっそく麦わら 帽子を被(かぶ)って仕事開始だ。「私は草を見る と取らんと気が済まんようになっちょるのよ」。腰 を屈(かが)めて、夏小豆と蜜芋(みついも)が植 わっている畑の草をむしっていく。野段集落の一番 上にあるイソノさんの畑からは、すり鉢状になって いる棚田の対岸に、実家のある東山集落が見える。 嫁いできた最初の一年は、実家を見つめながら随分 涙を流した。
 「どんなに辛かろうと、それを親兄弟には言うた らいけんって思うとったの。朝四時に木担桶(きた ご)を担いで坂を下って水を汲み、夜は夜で縫い物 があって」
 「あそこに大きな石があるでしょ」。畑の縁に腰 を下ろして、イソノさんが汗を拭く。「おととし じゃった。あの石の間にクマンバチが巣をかけ ちょったのに気づかんで、十二か所も刺されよった の。病院の先生も驚いちょったが、はぁ命拾いし たって思うとったら、去年はアシナガバチ。でもま あ、何ともなあだったわ。私、強いんじゃろか」。 手を口元に当てて笑いながら、急に恥ずかしそうに 爪を見た。「田仕事をしちょると、土のアクで爪が 黒うなるの」。爪も指の節も、イソノさんの人生を そのまま物語っているようだった。
夕方、畑近くの別れ道で、仕事を終えたイソノさん と親友のヤエノさんが世間話
ヤエノさんが収穫したばかりのジャガ芋をお裾分け し、2人の間に並べて置いてある
嫁にきた当時の話をするイソノさん
 「死んだ主人が笑うとったわ。昔、うちでニワト リを飼っておった時、ようやく卵を産みよったから 取ろうと思うたら、そこに大きなヘビがおって卵を 狙うてたの。ヘビより先に卵を取っちゃろう思うて 卵を掴んだら、ヘビが私の腕にかぶりついてきよっ たんじゃわ」 穏やかな笑顔だった。同時に、泣き だしそうにも見えた。「それくらい、食べ物がな かったちゅうことやね。母親じゃけえ、ヘビの怖さ より自分の子が可愛いちゅうことよね」
 イソノさんが嫁に来たのは、数えで二十歳の時。 終戦直後で、姉から借りた着物と衣装行季(ごう り)が花嫁道具だ。
 「じいさん、つまり舅の源治郎さんって人は、村 長やら峰市耕地整理組合長やら、長と名のつくもん を片っ端からやっちょった。胸の広い人じゃった。 私の主人も決して嫌なことは言わん人で、夫婦喧嘩 なんかしたこともなあだった」
 夫の達也さんは四年前に亡くなり、イソノさんは 長男夫婦と暮らしている。
 「ただ、生活は大変じゃったわ。じいさんがいろ いろ世話するけえ、山や畑を売って財産を切り崩し ておったの」
 自宅近くの畑で、青々と葉が茂った人参の上にビ ニールの網が被(かぶ)せてあった。「お猿さんが 抜きよる」。この集落でも、獣害は深刻だ。
「じゃけど感心したの。私の顔見てお猿さんたちが 逃げよった時、まず先に子を逃がして、お母さんは 一番後ろじゃった。親子っていうのは、まことにそ うか なって思いましたよ」
 翌朝、田んぼの水を見に来ていたイソノさんを見 かけた。水口近くの稲葉が、二本折れているのを そっと両手で挟み引き上げ、真っ直ぐになるよう直 している。その姿が祈っているように見えた。
「猪さんへ」と書いた立て札のあるイソノさんの畑
 
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発行:株式会社 山田養蜂場  編集:(C)リトルヘブン編集室
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