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リトルヘブン
三郎さんお気に入りのボタン桜の木陰で、思い出話を聞かせてもらった。屋外なのに扇風機が回って涼風を送ってくれる
三郎さんお気に入りのボタン桜の木陰で、思い出話を聞かせてもらった。屋外なのに扇風機が回って涼風を送ってくれる
マークUで畑に通う九十三歳自分の畑が何より欲しかった
ひ孫のために、ワラを敷いて大切に育てているスイカ
ひ孫のために、ワラを敷いて大切に育てているスイカ
64年連れ添ったカツさんが庭で赤シソの葉を洗う
64年連れ添ったカツさんが庭で赤シソの葉を洗う
 もみじマークを貼った紺色のトヨタマークUが、畑の入口に停めてある。沼田三郎さんの愛車だ。猛暑の中、さつま芋の植わった畑で、親指と人差し指に力を込めて手際よく雑草を抜く三郎さんの姿があった。「ひでえ草っ畑を見られっちゃったなあ」。前歯の抜けた口を大きく開けて笑う。落花生が小さな黄色い花をつけて葉を茂らせる梅雨明けの時期は、雑草も勢いがいい。「うちのスイカを見とくれよ。二つ三つあっからよ」。目を細めて口をすぼめ、まだ掌にのるほどの小さなスイカを三郎さんが愛おしそうに見つめた。
 三郎さんが暮らす下之街道集落には、畑地用の土地が少なく、住民の多くが急坂を上った台地の三増(みませ)集落の畑に通う。
十五歳で農家の作男になって三十七円 今はよ、ちゃんと生きていければいいの
 「うちはずっと小作農だったからよ、自分の畑が何より欲しかったんだ。お金が貯まると、とにかく土地を買ったよ。やっぱり土地だ。中でも三増の畑は、一番先に買った大事な土地だ」。仕事に疲れて一服するときは、畑の一角に建てた孫の及川広美さん(36)宅の縁側に腰をおろす。喉を潤すお茶と孫との会話。ほっと一息つける。「さてと、帰るか。ひとっ風呂浴びて一杯飲むべえ」。子どもの頃にカゴを背負って往復した山道が、今では車で五分に縮まった。
 畑に出ない日、三郎さんは昼寝をして過ごす。これまでずっと働きづめで、町議会議員も四期務めた。「尋常小学校を卒業した十三歳から子守り奉公よ。一年間で二十五円って契約だったな。十五歳で農家の作男になって三十七円だ。兵隊に行って、帰って結婚して、何かやんべえって始めたんが酪農だ」。「十二、三頭いて、とにかく忙しかったいね」。妻のカツさん(89)が懐かしそうに、牛舎があった場所を見る。「冬場はさ、牛を家の前に出して好きに運動させたっけねえ。息子が草持って帰ると、牛はちゃんと分かって啼くんだよ。今振り返ると、良くやったなと思うよ」。顔を見合わせて、ふたりが頷きあった。
「確か自然薯を埋(い)けてあったはずだ」と、畑で蔓(つる)を探す三郎さん
「確か自然薯を埋(い)けてあったはずだ」と、畑で蔓(つる)を探す三郎さん
 カツさんが席を外すと、三郎さんが小声でそっと言った。「遊ぶってことのない生活だったけどよ、作男に出てた若けえ頃、同じ若けえ衆同士、祭りん時なんかさ、山を越えて八菅(はすげ)から半原(はんばら)まで遊びに行ったよ。半原には、絹糸工場の女工さんたちが大勢いたの。今じゃ考えらんねえ距離を平気で歩いたよ」。そう言って頬がほんのり赤くなった三郎さんの顔は、少年のようだった。
 「今はよ、毎日ちゃんと生きていければいいの。あそこの草むしって、ここをきれいにしちまおうって思ってさ、それが出来た時が嬉しいよ」。自宅庭にそびえるボタン桜の木陰に置いたテーブル席が、三郎さんのお気に入りだ。そこに座って、自分で植えた胡桃や梅の木を眺める。ひ孫のために作ったブランコが、夏の太陽を浴びて銀色に光っていた。

文・阿部直美
写真・芥川仁
 
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