高等小学校を卒業した田中善雄さんは、十歳代後半を、当時、沢田集落から六キロほどの山中で操業していた舟打(ふなうち)鉱山で過ごした。鉱山で働いたのは、沢田の同級生五人のうち善雄さんだけだ。
「おらは、山ん中掘るんでねぐって選鉱場で働いたの。穴ん中で発破かけた鉱物を、トロッコで持ってきたらな、まず機械で砕いてよ、ベルトコンベアさ乗せるの。茶色っぽい石が亜鉛、青っぽいねずみ色が鉛でな、見ればすぐ分かるんだ。それ以外の石をガラって言ったんだどもよ。コンベアさ乗っかってるガラ見つけて投げる(捨てる)んが仕事だ」
全盛期には千人近くが暮らした舟打鉱山に、沢田集落の人々は、りんごや塩漬けにした蕗(ふき)やワラビなどを売りに行った。昭和三十七年に閉山した鉱山跡地には、環境保全のために木が植えられた。「選鉱場探したけど、平らにならしちまって、はあ、分がらねえ」と善雄さん。
沢田集落を流れる作沢川には、ヤマメやイワナが戻ってきた。