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リトルヘブン
足もとさえおぼつかないほど日が暮れてから、田井中廣治さんの運転する軽トラックが、ここから2キロほど離れた甲津畑集落へ帰って行った
 棒が七本、田んぼの中に突き刺してあった。苗は まだ植わっていないが、水を張った田の隅には細い枝木の束まで置いてある。「鼻水が出たらティッシュを鼻に詰めるやろ。それと同じや。中におる蟹さんが底に穴あけてな、水漏れするさかい、木を刺 しといたんだわ」。膝上まで水に浸かって耕運機を運転していた田井中茂さん(61)が、のんびりした口調で教えてくれた。 「小枝の束はなあ、メダカさんが越冬できるよう に置いたんよ。
 
長谷の棚田
鷺がメダカを食べよるし、体の弱いヤツもおるさかいな、わしが勝手に宿を作ってやったんよ」。田植え前の代掻きをしているのではなかった。二十年前に父親が倒れてから、茂さんは米 作りをしていない。「先祖さんから受け継いどるから、まあ田を荒さんようにってことだわ」。日が暮れるまで、田を掘り起こす作業は続いた。びっしりと生えていた雑草がドロドロの土に飲み込まれて いった。
  その日、道路脇の棚田では嘉子さんが、機械で植 えられなかった端の方や苗の抜けた箇所に補植して いた。上の田では、良子さんが草刈り機で畦の草を 刈っていた。皆がそれぞれの仕事をしながら、「お お、やっとるなあ」と、腰を伸ばしてお互いの存在 を確認し合う。
 
 「仕事はなあ、一気にせんことやわ。楽しみなが らやらんとなあ」。勤め帰りの廣治さんが、この一 帯で最後の田植えとなる自分の田の代掻きを始め た。「畦の石垣はな、毎日一個二個って石を拾うて きて自分で積んだんや」。大小の石を組み合わせて 積み上げた石垣は、もう何十年もそこにあるような 存在感だった。
 蛙の鳴き声が激しくなり、闇が足もとへと降りて きた。長谷では、棚田の一つひとつが凝縮されたそ の人の人生のように見える。「やっぱり一人じゃ寂 しいんちゃう。みんながおるから、ここに来るんだ わ」。完全に暗闇となった棚田から、廣治さんの運 転する軽トラックがゆっくり集落へ帰っていった。
田井中茂さんが作ったメダカの宿

 
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発行:株式会社 山田養蜂場  編集:(C)リトルヘブン編集室
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