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リトルヘブン
作業小屋の中で弁当を食べる太平さんとはるさん。
アルミの弁当箱は、長男の幸治さんが幼稚園へ持っ ていった時のものだ
 「ラジオはあかんわ、聞きに来よるで。みんなし てボリューム上げたことがあったけどな、お猿さん はかえって寄って来よったで」。婦人用の頭巾を 被った堅名太平さんが、呆れ顔で笑った。いつも穏 やかな太平さんだが、猿や鹿の話になると力がこも る。
田植えを明日に控え、今は鹿が心配だ。猿は稲 穂が実った頃に来るが、鹿は植えたばかりの柔らか い苗が好物。「鹿さんは白が嫌やって話でな、田の まわりに白い紐を張っとるんだわ。なあに、鹿さん は喋らへんけど、手前(自分)らが勝手に判断しと るんだ」
 十三歳の時に父を亡くし、長男の太平さんが先祖 からの長谷の棚田を引き継いだ。同じ甲津畑集落の はるさんと結婚してからは、山仕事や建設現場で働 きながら、朝に晩にと棚田へ通った。獣対策の話を するようになったのは、ここ十年ほど前からのこと だ。「そういえば、去年稲穂が垂れてきた頃、太平 さん、あんた車ん中で見張りするゆうて泊まりよっ たなあ」。隣の田んぼの田井中廣治さんが言う。 「あん時はな、家におれんかっただけや」。照れ臭 そうに俯く太平さんだが、田んぼに注ぐ情熱をまわ りの皆は知っている。
婦人用の頭巾をかぶった堅名太平さん
 青紫色のハルリンドウが咲く山の斜面から、水が にじむように湧き出していた。ピチピチと水の滴る 音がする。「ここは山の水使うとるから、米が旨い んだわ。ただ、人手のようけかかる所でな、四、五 軒が水路を共同で使うもんだから、今日は水を入れ とこゆう日は納得いくまで見てらんとあかん」。水 路には、砂を入れた肥料袋が所々に沈んでいて、そ れを出し入れすることで田の水量を各自が調節す る。水路を堰き止めて帰ってしまえば、他の田へ水 が回らないこともある。「良いとこもあるんやで。 お前とこの田んぼ、水が浅かったで入れといたで え、言われることもあるでな。持ちつ持たれつ。自 分さえ良ければええでは、こういうとこの共同生活 は出来んわな」。水路の流れを点検して、太平さん は一日の仕事を終えた。「子らは、こんなことしよ らんでな」。同居する息子には、田を継がなくてい いと伝えてある。
 初夏の朝、山間を吹き抜ける風はまだ冷たかっ た。二条植えの田植え機で、六枚ある田を順に植え ていくのは長男の幸治さん(42)だ。何度も立ち 止まって、効率よく植える道筋を頭の中で描く。そ の傍らで、太平さんが黙々と苗を運び出していた。 今年は気温が上がらず、田植えの日程を遅らせた農 家も多い。太平さんのところは予定通り、近隣七軒 では一番早くに田を植え終わった。
 次の日も、朝七時に太平さんの姿があった。いつ もと同じ日の丸弁当を持ってきた。「生まれてずっ とここにおるけど、都会に出ようなんて思うたこと は一度もあらへん」。鹿が来ていないか、水は足り ているか、ゆっくりと田のまわりを歩く。太平さん のいつもの一日が始まった。
二条植えの田植え機を押す長男の幸治さん
田植えの終わった田んぼを見つめる太平さん
畦に咲いているハルリンドウ
 
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発行:株式会社 山田養蜂場  編集:(C)リトルヘブン編集室
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